「震災復興 寺院本堂」 鈴木 正明 会員
本日は、予定を変更して私の郷里であります福島の話をしたいと思います。
福島県は縦の線で、浜通り地方・中通り地方・会津地方と呼んでおります。今回は浜通り地方が、津波により壊滅です。
我が子どもの頃も、地震は頻繁にあり、父親からは『地震の時は、真っ先に引き戸を開けるように、そしてすぐには外に出るな』
家が傾いては、建具は開かないので逃げることが出来ない。
いざと言う時、開けてある戸口から逃げること。地震直後に外にでれば、地割れにのみこまれる。などでした。
小さな地震はありましたが、平穏な日々を18年間過ごす中、私が中学生のとき『浜通りは景気が良く、急場の歓楽街が出来たそうだ』と聞きました。これが原発景気で、地元の人々を含め工事関係者など、大勢の人たちが原発景気に沸いたそうであります。
北陸の原発には、テロ対策として県警の特殊部隊が、自動小銃で武装して警戒しているとの、話は聞いておりましたが、まさか津波で危機的状況になるとは、全く想像しておりませんでした。
福島においての原子力発電所の事は、景気が良かったとの認識しかないので、友人との電話で、生家からは100キロくらい離れているので大丈夫と話をしましたが、心配で福島の兄に確認しましら40キロ先にあるとのこと、びっくり仰天でした。
地図で確認しましたら、40キロで私の郷里、二本松市の東部が入り、私の生家からは約50キロ先に危機的状況の発電所があります。その上、建屋が爆発するは、黒煙は上がるテレビ報道で、兄と相談し娘と孫を非難させようとなり、又、生活物資がないなどの状況を聞き、袋詰ラーメンを買いに走るも品切れ、何とかカップラーメン、生鮮野菜などを買い込んで、3月19日深夜3時に大阪を出発し、途中、富山の知人に段取りして頂いた、ガソリン3缶を積んで走り、二本松には午後2時に着きました。
中通り地方は地震の被害も屋根の棟がわらが崩れる程度で、家屋の損壊などはなかったように見えました。
しかし、ガソリンスタンドが営業しているのは、JAか出光くらいでした。そこに長蛇の列で、一回の給油で1000円分とか、20リッターとの事でした。私の妹も7時間待って20リッターの給油との事でした。地方の交通機関は、各自1台の自家用車時代で路線バスもなくなり、ガソリンは必需品、ガソリンがなければ身動きがとれず、放射線による避難勧告もままならず。といった状況です。
私の生家は農家です。兄は露地物のキューリ・しいたけなどのキノコ類・稲作をしております。稲作は作付け委託を受け段々と規模が大きくなり、農機具を購入したばかりで今後どうなるだろうか、大変心配しております。今年も、例年通りの作付けをするそうですが、果たして出荷が出来るか、又、作付けをしないと補償の問題もあるので・・・といっておりました。
大阪には、翌日の20日に帰ってきました。結果兄の娘と孫は避難せずとなり、独り大阪に戻ってきました。