■会長の時間
今日は大阪城のお話し第四回目です。これで最終回となります。
江戸時代(1665年)落雷により焼失した大阪城天守は昭和7年(1932)再建されるのですが、再建の発端は、大正14年(1925)大阪市は「大大阪記念博覧会」を開催しました。このとき天守台の上に「豊公館」という仮設の建物を建て、そこでは秀吉ゆかりの品々が展示公開されました。45日間で約70万人が訪れるほどの大盛況でした。これがきっかけとなり、昭和3年(1930)、仮設ではなく恒久的な天守をつくることが大阪市議会で承認されたのです。
そして再建するにあたっての課題その一、何と市にはお金がなかった。そのため寄付を募集すると殺到し半年間で目標額の150万円に達したそうです。今の価値で75億円くらいでしょうか?
課題その二、この時の大阪城の所有者は陸軍でした。このため城内に点在する陸軍施設を移動させなければなりません。その費用に寄付の内80万円を費やしました。その施設は昭和20年8月14日空襲を受けましたが奇跡的に残り、戦後は占領軍が接収、その後大阪府警察本部や大阪市立博物館として使われ、現在は複合施設「ミライザ大阪城」となっています。
課題その三、豊臣秀吉が建てた天守の復興を目指しましたが、「大坂夏の陣図屏風」に天守が描かれているものの、豊臣時代の大坂城の資料は少なく、しかたなく徳川時代のものとミックスしたものとなったようです。
課題その四、燃えない恒久的建物にするということで、当時としては最新の建築工法である鉄骨鉄筋コンクリート造とすることに決まりました。総重量は約1万1000トン、徳川時代の石垣(天守台)に負担がかからないように、吊り下げ工法が用いられました。このため一階の外壁は石垣から13cm浮いているそうです。
地上55mの超高層建築は当時国内最初の例であり、多くの困難を伴った工事は昭和5年(1931)にはじまり、翌年の11月7日、3代目の大阪城天守閣が無事に完成。結局秀吉時代も、江戸時代も、近代も一年半で建築したことになり全然進歩していません。近代建築による復興天守閣の第1号であるとともに、鉄筋コンクリートで天守を復元して、内部を歴史博物館として活用する——この方法は、戦後にブームとなり、大阪城は復興天守の成功モデルとなりました。
ただ、このときはまだ、豊臣時代の大坂城の上に徳川時代の大坂城が建てられていた事実に誰も気づいていませんでした。その事実が判明したのは昭和30年代に入り、「大坂城総合学術調査」によって現在の本丸地下7mに、豊臣時代の石垣が埋もれていることがわかってからです。現在では大阪市が豊臣時代の石垣を掘り起こして公開する「豊臣石垣公開プロジェクト」を推進しています。
平成7年(1995)から平成9年(1997)にかけて、大阪市は総工費70億円を投じて「平成の大改修」を行い、大阪城天守閣は復興当時の美しい姿に蘇りました。また、同年、初期近代建築として登録有形文化財に指定されました。復興天守としては初の文化財指定となり現在もその雄姿を保っています。
【来客紹介】 |
1名 |
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【出席報告】 |
5年4月21日(第940回例会) |
会員総数 |
出席免除会員 |
出席会員 |
欠席会員 |
出席率 |
38名 |
1名 |
23名 |
12名 |
62.16% |
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【幹事報告】
〔メールBOXに配布〕
1)「ロータリーデー」トートバッグ (ウクライナ支援のためのオリジナル・トートバック)
〔メール送信〕
1)公式ゴルフコンペ(4/25)最終案内 ⇒ 4/20 参加者へ配信