■会長の時間
今日は前回に引き続き大阪城のお話で、第三回目としてお話ししたいと思います。
江戸時代には、2代将軍徳川秀忠により1620年から再建工事が行われ、豊臣時代の大坂城はすべて埋められ、堀はより深く石垣はより高く築き直されました。全体としては3期10年にわたって工事が行われ、1629年3代将軍家光の時に全体が完成しました。
秀吉の大阪城と徳川の大阪城を比較した鳥瞰図があります。石垣は野面積みから切込接ぎ(四角く加工)となり、高く積めるようになったので段積みではなく一気に高く積み上げることができるようになりました。本丸のところを見てみますと、秀吉の石垣は三重になっていますが徳川の石垣は一列になっているのが良くわかります。その他にも、内堀は南西側が埋められ、天守は西に寄せています。また極楽橋が東に移動しているのがわかります。
天守は、秀吉時代黒かったものが徳川のそれは白亜になりました。そして高さも約18メートルも高かったと推測されています。徳川政権は秀吉のものと対照的で、より大きなものにこだわっていたことが良く表れていると思います。
5層6階の天守は1626年完成しましたが、江戸時代の大阪城は雷が大当たりしています。三度落雷を受けており、一度目は1660年、火薬庫に落雷し大爆発。天守や御殿、櫓、橋など多くの建造物が損傷。修理には莫大な費用が掛かったようです。
二度目は1665年、天守の鯱に落雷し、この時、築城から僅か39年で天守は焼失してしまいました。この時はもう嫌になったようで、天守を再建しませんでした。以来、昭和に天守が復興されるまでの266年間、実は大坂城に天守はありませんでした。
因みに三度目の落雷は1783年、大手多門櫓に直撃し櫓を焼失しました。
では江戸時代の大阪城主は誰でしょう?江戸時代の最初は、家康の孫松平忠明に大阪藩が与えられましたが、1619年忠明は大和郡山に移封となり、幕府は大阪藩を廃止しました。以来大阪は幕府直轄の天領となったため城主は徳川歴代将軍というのが正解です。が、城主はほとんど入城されたことが無かったようです。その代わり大阪城代という人がいました。城代は譜代大名から選ばれ、近畿、中国地方支配の拠点としていました。2~3年ごとに交代し70代続いたとされています。
そして昭和2年、大阪城天守は再建され今に至りますが、また来週お話しいたします。
【来客紹介】 |
0名 |
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【出席報告】 |
5年4月14日(第939回例会) |
会員総数 |
出席免除会員 |
出席会員 |
欠席会員 |
出席率 |
38名 |
1名 |
24名 |
13名 |
64.86% |
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【幹事報告】
〔メールBOXに配布〕
1)第10回理事会報告・第1回準備理事会報告
〔回覧資料〕
1)アフター例会(4/21)出欠表