■会長の時間
今日は建築の話題第10話として大阪城についてお話ししたいと思います。
前回、豊臣秀吉が大阪本願寺跡に大阪城を築いたとおはなししました。そして最初に天守を建てたのですが、1年半という当時としては突貫工事で完成させたそうです。築城奉行は黒田官兵衛でした。その後10年をかけて全体を作り上げたのですが、それは同心円状に廓を配置した輪郭式平城と言われる形状につくられました。天守は漆黒の5層で、鯱瓦(しゃちほこがわら)や飾り瓦、壁面に刻まれた金色の彫刻など絢爛豪華な城だったと言われています。
それは残されている屏風絵からわかっているそうです。最古の大阪城の絵と言われている「大阪城図屏風」(中図)や「大坂夏の陣屏風」(上図)(大阪城天守閣所蔵)です。この「大阪夏の陣屏風」は黒田官兵衛の子黒田長政が戦勝記念に書かせたと言われています。築城奉行として大阪城を築いた黒田官兵衛の子黒田長政が、徳川家康側ににつき大阪城を攻め落としたのです。この屏風は長く黒田家に伝えられていたそうですが、1958年黒田長礼(くろだながみち)黒田長政から数えて14代目黒田家当主が大阪市に売却したので大阪市の所有となりました。
秀吉時代の大阪城の資料としては、中井家(江戸幕府大工頭)が所蔵している「豊臣時代大阪城指図」と言われるものが、信ぴょう性が高いとされています。(下部図)また全体図としては、伊達家に残る『僊台武鑑』(せんだいぶかん)(江戸時代中期に仙台藩士佐藤信直が藩祖伊達正宗の事歴をまとめたもの)その中に収められた「大坂冬の陣配陣図」(上の図)を基に復元された案(下の図)が最も有力とされています。
秀吉がその権力の象徴として建てた大阪城ですが、秀吉が住んでいたのはわずか1~2年、関白時代は聚楽第に5~6年、太閤時代は伏見城に7~8年住んでいました。そして秀吉の大阪城はわずか15年間しか存在できませんでした。大坂夏の陣で豊臣家が徳川家康に敗北すると、徹底的に破壊されてしまいました。因みに大坂冬の陣・夏の陣の二度の攻撃で大阪城を攻め落とした家康はその勝因を「これはわしの知恵ではない。太閤が教えてくださったものだ。太閤は『この城を攻めるには力業では成功しまい。調停を使って、二度目でなければ攻略できまいと思われる城だ』と自ら語られた。」と語ったそうです。
現在建っている大阪城は三代目です。大阪城の歴史は安土桃山から徳川へそして昭和へと続いていきます。つづく・・・
【来客紹介】 |
0名 |
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【出席報告】 |
5年4月7日(第938回例会) |
会員総数 |
出席免除会員 |
出席会員 |
欠席会員 |
出席率 |
38名 |
1名 |
25名 |
12名 |
67.57% |
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