「オバマが広島に来て」 豊島 秀郎 会員
アメリカ大統領のオバマが、5月27日、広島に来ました。マスコミは歴史的な日と言っていました。そこで、今日は、自己紹介を兼ねて、広島についてお話しします。
私は、昭和28年、島根県松江市で生まれました。昭和30年か31年、広島市に移りました。私はもちろん、私の家族は被爆していません。幼稚園、小、中、高校時代を広島で過ごしています。小学校から高校まで、広大附属小、中、高校と同じ学校で12年間過ごしました。県下随一の進学校であるとともに、サッカーを校技としている学校でした。長沼健先輩など、戦後の日本サッカーに重要な役割を果たした先輩が大勢いました。私も、そこで、勉強とサッカーをしていました。
広島は、原爆に遭い、70年間、草木も生えないと言われたそうです。実際、被爆で苦しんでいる方々も大勢おられます。しかし、私が育った時、広島は快適な町でした。広島の町は、原爆に遭ったこともあり、戦後、整然と作り直され、きれいな町です。大統領訪問を伝えるテレビのアナウンサーが、「川と緑に囲まれた地、広島」と何度も言っていました。広島は、狭い旧市内に7本の川が流れ、川が占める面積が大きな町です。私の子供の頃は、川沿いには原爆スラムといわれた違法建築物が建っていました。昭和3・40年代、それを立ち退かせ、跡地を公園にしてから、広島の町は、見違えるほど、緑が多くきれいな町になりました。
食べ物もおいしく、その意味でも快適な町だと思います。サッカー、野球とスポーツも盛んです。カープも、サンフレッチェもあります。
では、私が育った時、原爆の陰が全くなかったかというと、そうでもありません。
私は、小さい頃、市内の比治山という、標高70m位の小さな山の近くに住んでいました。幼い時の遊び場で、中学校当時は、そこの坂道でよくトレーニングをしていました。そこに、ABCCという施設がありました。当時は、米軍が、被爆の影響を長期間に渡って研究している施設と聞いていました。子供心に怖い処と思い、近づかないようにしていました。この施設は、今でも、存在し、ネットで情報が出てきます。
広大附属は、昭和30年代の後半まで、広大の構内にあり、爆心地から2キロに位置していました。そのこともあり、先生や先輩には被爆経験のある方々がたくさんおられました。小学校の名簿では、一学年全員死亡の記載があったと思います。
広大附属時代は、大勢の先生方のお世話になりましたが、私は、中でも2人の先生を尊敬していました。中学2・3年の担任の三浦先生と、サッカー部の監督であった福原先生でした。お二人とも被爆していました。
三浦先生は、鹿児島に実家があり、広大附属中・高を卒業され、私の先輩でした。私は結婚式の仲人もしてもらいました。ご本人からは余り原爆のことを聞いていません。後で、奥様から聞いたところでは、中学時代に学校で被爆したとのことでした。中学校は木造の校舎でしたが、たまたまトイレに居て、一命を取りとめた、周囲の悲惨な状況に驚愕し、鹿児島の実家に逃げ帰った、その逃げ帰ったことに負い目を感じて、余り原爆のことを話さないようだとのことでした。
福原先生は、広島一中、現在の国泰寺高校の出身で、東京教育大に進み、日本代表にもなり、広島サッカー界全体の指導者でした。30歳代後半で、胃がんで亡くなっています。私は、先生が亡くなった時点(高校1年終了時)でサッカーを辞めています。先生が亡くならなければ、私の高校生活も違ったものとなったと思います。
先生が亡くなった時、サッカーマガジンという雑誌に、「広島サッカー界の父死す。」との題目の追悼記事があり、その中で当時の東京教育大のサッカー部監督が追悼記事を書いていました。その記事によると、福原先生は、試合の時、必ず、小袋をゴール脇に置いていたそうで、仲間は不思議に思っていたようです。後々判ったことでは、先生は原爆の影響で心臓に欠陥があり、そのことが原因で無様な試合をした時には死ぬ覚悟で、青酸カリを小袋に忍ばせていたとのことでした。本人からはそのようなことは一切聞いていませんが、東京教育大サッカー部監督の追悼記事ですから、嘘でもないだろうと思いました。私は、福原先生が早死をした原因は被爆にあると思っています。
私は、快適な学生生活を送り、広島の町も活気にあふれていましたが、その反面、このように原爆の陰があったことも事実です。
ところで、私にとっては、平和公園は慰霊の場と言うよりも、時々、行って遊ぶ場所でした。小学校から近く、小学校時代は頻繁に行きました。そこに、アメリカの大統領が来たわけですから、私としては、「私の昔の遊び場に、アメリカの大統領が来ている。」と不思議な感覚で、テレビを見ていました。