「世阿弥の生涯」 小林 知義 会員
1.世阿弥の出生
世阿弥は大和猿楽の結崎座、観阿弥の息子として、奈良に生まれています。観阿弥はその当時、時の大将軍、足利義満から、全国の猿楽の最高峰の地位を与えられています。13歳の世阿弥も、その頃は、義満の寵愛を一心に受けていました。
ただ、義満は時が経つにつれて、物まねと荒事が全ての大和猿楽から、羽衣の舞などを得意とする優雅な近江猿楽へと興味が移り、道阿弥を寵愛するようになったと言われています。
世阿弥の能楽への、飽くなき探求は、この出来事を契機に始まったと考えられています。世阿弥は、役者として、演出家として、作家として、評論家として、能楽の基礎のすべてをつくった偉大な天才という評価を受けていますが、それは、芸術性を見抜くすばらしい眼力を持つ、時の権力者、義満を意識して、好かれたい、嫌われたくないという強い思いから磨かれたと言われています。
2.世阿弥の目指した究極の芸の境地
能楽の演者としての究極の目標となるのが花。花のある舞台、花のある演技を求めます。現在でも花がある役者などと、同じ意味で使われる事は多いです。ただ、世阿弥の言う花は、時として、変幻自在に変化します。若いときは、何もしなくても「時分の花」として咲かせることはできるのですが、世阿弥は、演者として年老いるほどに「まことの花」を求めなければならない教えています。ずっと、ただ単に、同じ演技を続けているだけでは、花はなくなってしまうし、多くの大衆に認められのでなければ、花とは言わないとも述べています。最後に、秘すれば花であるが、秘密でなければ花とはならない。いくつになっても、しっかり、精進すれば、まことの花を演ずることができると、彼は花伝書の中で述べています。
昔からの美意識を表現する言葉として、「わび」「さび」「あわれ」という言葉がありますが、これは、平家物語のはじまりの部分では「祇園精舎の鐘の音に、諸行無常の響きあり」と表現されています。また、万葉集の成就しない恋の歌にも、「あはれ」はよく使われていますが、西洋人には、少し、よく解らない感覚だそうで、日本人共通の、独特の美意識だと言われています。この延長線上にあるのが、幽玄という言葉で、優雅で滅び行く美しさを言い表しています。世阿弥が、更に、夢幻能の中で、ブランド化したと言われています。具体的にどうしたのかというと、世阿弥の最大のライバルであった近江猿楽の道阿弥の天女の舞を、大和猿楽にうまく取り入れ、優雅で巧みな能楽を完成させたと言う事です。その境地を幽玄と呼んでいます。
3.世阿弥の最後
世阿弥は、室町幕府の3代将軍、足利義満に一時は寵愛されたが、大半はそうではない時代を能楽一筋に打ち込んできた。しかも、老年72歳の時に、6代将軍義教にうとまれ、佐渡に流された。苦節5年を経て、義政の治世、78歳で復活を果たすという波瀾万丈の一生をおくってきた。当時、最大のパトロンだった歴代将軍との芸を通じての戦いには、時代を超越する程の凄みを感じざるを得ない。
シェークスピア生誕の200前の事なのだが、彼の言葉は、人生の教訓として、今でもイキイキと輝きを失わない。日本芸術家史上最大の人物だと思います。
以上