■会長の時間
【悩みを突き抜けて喜びに到れ】
西欧の故事。
ベートーベンの全生涯を表現したことばとしてよく知られている。
すばらしい数々の音楽遺産を残した楽聖ベートーベンは、まことに不幸な、恵まれない生涯をおくった。
ベートーベンは、生まれき醜くかった。母親はやさしく、おとなしく、愛情を示してくれたが、ときとして感情的に非常に沈んでしまう欝病傾向をもっていた。宮廷楽団のテノール歌手であった父親は、酒飲みで、アルコールが入ると残虐になり、ベートーベンに苛酷な音楽教育をほどこした。そのため、幼児期からベートーベンは泣いてばかりいた。性格的にも暗く、近所の少年たちから嫌われるほどだった。たいへん不器用で、動作がぎこちなく、よく物をこわした。
祖母はアルコール中毒であり、入院先の病院で死んでいる。きょうだいはベートーベンも入れて六人だが、そのうち三人は子どものころ死んでいる。残ったふたりの弟もまともではなく、特に末っ子の弟は、ひどく貪欲で周囲の人びとを困らせた。
ベートベン一家をみると、本人も含めて社会にうまく適応できない人物の集まりであったことがわかる。
こんな家庭環境で育ったベートーベンは、幼児期から、精神的に不安定で、感情の変化が激しく、身体のことをひどく気に病む心身症傾向があり、しばしば自殺を考える人間になった。晩年にはもの忘れがひどく、誰も信じられないほど、とっぴな言動が多くなった。また、横柄で、尊大な態度もときにはみられ、あまり人から好感をいだかれる人物ではなかったのである。
家庭の不幸、自分自身の心身の欠陥からくる不幸、さらに音楽家としては致命的な不幸に見舞われる。耳の病気にかかり、まったくの聾者となってしまうのである。それでもベートーベンは、さまざまな不幸、絶望的ともいえる悩みを克服して、一曲また一曲と偉大なる音楽を創り出していく。
が、世俗的な意味では恵まれず、自作の第九交響曲を自ら指揮して初めて演奏したのは、死のわずか三年前である。
ウィーンのケルントナートーア劇場での演奏会は大成功だった。演奏後、満場の聴衆は熱狂して、割れんばかりの大喝采、大拍手をおしみなくベートーベンにおくった。しかし、客席に背中を向けて指揮棒をとっていたベートーベンには、なにが起こっているのかわからなかった。側にいたアルト歌手が手をとって聴衆のほうに向かわせて、はじめて第九交響曲のかつてないほどの成功を知ったのである。
【来客紹介】 |
1名 |
|
【出席報告】 |
25年5月10日(第543回例会) |
会員総数 |
出席免除会員 |
出席会員 |
欠席会員 |
出席率 |
32名 |
2名 |
18名 |
12名 |
60% |
|
|
【幹事報告】
〔メールBOXに配布〕
1)ロータリーの友(5月号)
2)月間地区出席報告(3月分)
3)活動報告書のお願い ・・・各委員長へ
〔回覧資料〕
1)秋のライラ報告書
2)大阪交通災害遺族会「パンジーだより」