■会長の時間
【言葉は思うところをいつわるために人間に与えられた】
西欧の故事。
フランスの劇作家モリエールの笑劇に『強いられた結婚』というのがある。そのなかの登場人物のひとり、パンクラース博士はことばについて次のように説明している。
「言葉が人間に与えられたのは思惟を説明するためじゃ。思惟が事物の映像であると同じく、我等の言葉は思惟の映像である。しかし、言葉が他の映像と異なる所以は、他はすべてその原型と区別し得るのに反し、言葉はそれ自体が原型を内包する点にある。言葉は外的記号によって説明された思惟以外の何者でもない。従ってよく思惟するところの者は又よく語るものである。よって、あなたの思惟するところを、即ちあらゆる記号中もっとも伝達性のある言葉によって御説明願いたい。」 (岩瀬孝訳による)
一読、二読しただけではさっぱりわからないせりふだが、要するに「ことばは、心に思ったことを表現するために人間に与えられている。ことばは心の代弁者であり、魂の姿である。さあ、気持を話してみなさい」といったほどの意味ではあるまいか。
17世紀に、モリエールが明快にことばについて語っているのに、18世紀に入って、これを極端にねじ曲げて、まるで逆な意味に使った男がいる。政治家タレーランである。フランス人らしいエスプリのつもりなのだろうか。
「言葉は、思うところをいつわるために人間に与えられた。ある連中にいわせると、思うところをかくす助けをさせるためである」
そういわれてみると、なんとなくそんなものかなあと思わせる迫力があるから、タレーランもなかなかの政治家だったのではあるまいか。
恋をしている人間は、ふだんの日常生活を知っている人がみると、「あ、恋をしている」とすぐわかる。どこか言動に張りがあるし、目の輝きがちがう。で、若い女性に「ずいぶんきれいになったね。恋をしたの」と尋ねると、顔を赤く染めて、身体ではそのとおりと肯定しているくせに「いいえ。そんな。絶対にしていません。」などという。それはそれでよいのだが、タレーランの指摘するとおり、「思うところをいつわっている」のである。
若い女性の恋愛に関する否定しながらの肯定だから、罪はなく、恥らいになんともいえぬ新鮮さがあってよろしい。が、これが法律上の罪をおかしながら、ぬけぬけと否定してはばからぬおとなたちとなると許せない。なんと多くのことばが、思うところをかくすために語られているか。
【来客紹介】 |
0名 |
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【出席報告】 |
25年2月22日(第534回例会) |
会員総数 |
出席免除会員 |
出席会員 |
欠席会員 |
出席率 |
31名 |
2名 |
23名 |
6名 |
79.31% |
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