■会長の時間
皆さん、こんにちは。私は、今週月曜日に、新型コロナのワクチン2回目を接種しました。これで7月29日の20周年行事のころには、抗体が出来ているので多少安全かと思っています。
今回の20周年行事でロータリー米山奨学会に対して、当クラブから100万円の寄付を行い、29日に表彰状を授与されることになっています。新入会員の皆さんは、米山奨学会が、我々の大切な会費から100万円も寄付するほど大切な会なのか?と疑問を呈する方もおられると思いますので、米山奨学会と米山梅吉氏の話をします。
1952年(昭和27年)、東京RCが、日本のRCの創設者である米山梅吉氏の偉業を記念し、後世に残るような有益な事業を立ち上げたい。という思いで、海外から優秀な学生を日本に招き、勉学を支援する奨学事業「米山基金」の構想を発表しました。そこには、二度と戦争の悲劇を繰り返さないために、国際親善と世界平和寄与したい。という当時のロータリアン達の強い願いがありました。
米山奨学事業の記念を付した米山梅吉氏の生涯について話します。
米山氏は、1868年(明治元年)に江戸(東京芝田村町)で生まれました。父:大和国高取の藩士・和田竹造と母:静岡三嶋大社の神官 日比谷右京の娘との間に、三男として生まれました。この時はまだ和田梅吉で、彼が四歳の時に父が亡くなり、家族で、母の実家のあった静岡三島の長泉村に帰ります。彼は、幼少から神童といわれた英才で、七歳で兄が教師を務める「映雪舎」今の小学校に入ります。梅吉が11歳のときには、今川時代から北條時代を経て400年続く名家の米山家から目を付けられます。米山家には、梅吉より6歳下の一人娘がいました。やがて、梅吉の妻となる人です。
梅吉は、14歳で旧制沼津中学に入学し、2年で中退して、上京します。銀座の江南学校に入学しますが、この時はお金がなく大変苦労したようです。17歳で東京府吏員採用試験に合格し吏員となって経済的に安定し、アメリカ留学を目指したようです。
19歳で東京英和学校(青山学院の前進)に転入し、アメリカ人講師のもとで英語を学びます。
20歳で米山家に養子として入り、その年に渡米します。8年間の在米中に、オハイオ州ウェスレアン大学やニューヨーク州シラキュース大学などで法学を学び、ウェスレアン大学からマスター・オブ・ハーツの商号を得ています。日本に帰国後勝海舟に師事し、「博文館」より「提督ペルリ」を出版しています。
29歳で、井上馨(かおる)の紹介で銀行に入社し、三井銀行の深川・横浜・大阪の各支店長を歴任し、41歳で常務取締役に就任し、実質的には三井財閥の総帥であった池田成彬(しげあき)と銀行の実権を掌握していました。
52歳で、日本初のロータリークラブである「東京ロータリークラブ」を設立し、初代会長に就任。内外編物(現・ナイガイ)の設立にも深く関わりました。56歳で三井信託株式会社を設立して取締役社長に就任。
米山氏は、信託業についてこういってます。「銀行は、金を預かって金利を払い、その金をさらに高い金利で貸し付ける、それでなければ商売にならない。信託業は、あらゆる財産権を預かり、安全に保管して料金を受ける。同じく営利を目的としても、信託業は、預けた人のために預かったものを管理運営した利益を還元するのだから奉仕だ。」
67歳で財団法人緑岡小学校(現・青山学院初等部)をすべて私財で創立し、校長に就任し、翌年には幼稚園をまたすべて私財で創立し妻が延長に就任。70歳で貴族殷議員に勅選(ちょくせん)される。
晩年も、財団法人三井報恩会の会長に就任し、ハンセン病・結核・がん治療研究の助成に貢献し、青森から沖縄までの全てのハンセン病の療養所を自ら調達した見舞品を持参して訪問しています。結核療養所も全国ほぼ訪問しており、ベルギーから当時のお金100万円でラジウムを購入し研究所に寄贈し、そのほかにも多くの高額寄付や小学校への蔵書の寄付をしています。また、第15回赤十字国際会議日本赤十字代表委員などを歴任し、紺綬褒章、四等瑞宝章受章し、享年78歳でした。
【来客紹介】 |
0名 |
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【出席報告】 |
3年7月16日(第877回例会) |
会員総数 |
出席免除会員 |
出席会員 |
欠席会員 |
出席率 |
38名 |
1名 |
22名 |
15名 |
59.46% |
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【幹事報告】
〔メールBOXに配布〕 1)20周年打合せ資料(プログラム・役割分担表)
〔メール送信〕 1)地区ホームページ閲覧用パスワードのご連絡 ⇒ 7/14 配信
〔回覧資料〕 1)「2021年7月 静岡県熱海豪雨災害」募金箱