皇統の継承は大丈夫なのか? ~男系継承絶対維持の立場から~ 西岡 哲也 会員
昭和22年(1947年)に11の宮家が皇籍離脱となり、皇室に残ったのは昭和天皇家と弟の3宮家になりました。
令和元年(2019年)現在ある三笠宮、常陸宮、高円宮、秋篠宮の4宮家には悠仁親王殿下と同世代の男系(以降父系と表記)男子はおられません。このままで皇統の安定的継承は、果たして大丈夫なのでしょうか。
皇統継承の絶対法則(父系継承)の危機は日本の歴史上4度ありました。正史によれば、大変な苦労をしてきましたが、4度とも全部同じ方法で乗り切ってきました。いずれの時も、何としてでも父系継承を堅持する、そのことに賭ける強い意志と執念を感じます。その4度の危機とは次のとおりです。
1度目の皇統断絶の危機は、25代武烈(ぶれつ)天皇に皇子も男兄弟もなく、武烈天皇崩御の後しばらく 空位が続いた時で、25代武烈天皇と10親等の隔たりはあるが200年以上も遡って、15代応神(おうじん)天皇を共通の祖先とする男大迹王(おほどのおおきみ)が即位して26代継体(けいたい)天皇になりました(507年)。なお、継体天皇は、武烈天皇の姉・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后にしました。
2度目の危機は48代称徳(しょうとく)天皇の時で、この時には8親等隔てた49代光仁(こうにん)天皇が皇統を引き継ぎました(770年)。称徳天皇は史上6人目の女性天皇です。以後109代明正(めいしょう)天皇まで850年、女性天皇はありません。史上8人目で最後の女性天皇は、117代後桜町(ごさくらまち)天皇です。
3度目の危機は101代称光(しょうこう)天皇の時で、この時には8親等隔てた102代後花園(ごはなぞの) 天皇が皇統を引き継ぎました(1428年)。
4度目の危機は118代後桃園(ごももぞの)天皇の時で、この時には7親等隔てた119代光格(こうかく)天皇が皇統を引き継ぎました(1780年)。なお、後桃園天皇には娘がいましたが、「女子だけど天皇にすれば」という話ではなくて、後桃園天皇の娘は、皇統を引き継いだ光格天皇の皇后となっています。
これらの史実から、我が国の先人たちは皇統を守るために、たとえ200年以上遡っても、たとえ10親等を 隔てようとも、父系継承という絶対法則を堅持してきたことがわかります。
平成18年(2006年)9月に悠仁親王殿下がお生まれになりました。秋篠宮皇嗣殿下ご夫妻の「Good Job !」。
実に40年9か月振りの皇統に属する父系男子。既に皇位継承問題は喧しく、全国で号外が撒かれ、CNNも「It’s a Boy !」と第一報。各地の神社で神輿の奉納、提灯行列が行われるなど、安堵とご慶祝で迎えました。
この悠仁親王殿下の誕生によって皇統断絶の危機が当面は解消されたことで、皇室典範改正法案の提出は見送られました。小泉首相の「有識者会議」が提出した「女性天皇」「女系(母系)天皇」「女性宮家」を認める報告書は白紙に戻し、皇位の父系継承の方策については、今後政府内で慎重に議論することとしました。
しかし、まだ議論は始まっていません。悠仁親王殿下が天皇に即位する頃には、皇室に悠仁親王殿下しかいない状態となる可能性があることに変わりはありません。今上陛下の即位を機に皆で考えましょう。皇統を安定的に継承するため、史実と先人の知恵から学ぶなら、私は「旧宮家の方々の皇籍復帰」を支持します。 (出典・参考文献はWikipediaを参照してください)