■会長の時間
【米山梅吉翁】
先週4月12日に、米山記念奨学会についてお話致しましたところですが、ガバナー月信の4月号を見ますと、米山奨学生委員会の岡部倫正委員長が米山奨学生を伴って米山記念館を見学した旨の報告が掲載されていました。それによりますと、米山記念館は、新大阪からこだまに乗れば2時間半の三島駅近くにあり、駅を降りると、車で10分もかからない距離とのことです。日本のロータリーの生みの親ともいうべき米山梅吉翁の記念館に行ってみたいものです。
そこで、今日は、米山梅吉翁の生い立ちなどについて少し触れてみます。米山梅吉翁は、明治元年(1868年)に東京芝田村町にて和田竹造の3男として生まれました。しかし梅吉4歳のとき父親が逝去し、やむなく母の郷里三島に移り住みます。梅吉は神童と言われたほどの英才で、11歳の時に米山家から養子にと望まれました。その後、沼津中学で学びますが、卒業を待たずに出奔し、東京に出て渡米の夢をもちます。この間、いろいろあったようですが19歳のとき米山家に入籍し、渡米をしています。8年間、カリフォルニア州、オハイオ州、ニューヨーク州の大学で学んで、27歳のときに日本に帰り、翌年、米山はると結婚。上野と青森間に開通していた日本鉄道会社に一旦入社するが、その後三井銀行に入社し、30歳の時に銀行業務取調のために欧米出張を命ぜられます。サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨークと回り、さらに、ロンドン、ドイツ、フランス、オランダ、ベルギーを視察、ブラッセルに滞在した後、帰国しています。
なお、1905年にシカゴにロータリークラブが創設されています。当然、米山はロータリーのことはまだ知りません。
その後、1917年に、米山は政府特派財政経済委員に任命されて渡米します。このとき三井物産の現地法人に勤務していてダラスロータリークラブの会員でもあった、福島喜三次(37歳)との大正7年元旦のダラスでの邂逅となるのです。
米山は1918年に帰国し、その翌年1919年に、福島も帰国。1920年福島は東京にロータリークラブを創ることの特別代表を委嘱されます。しかし、当初の設立期限までには設立に至らず、延長を申し出るとともに、設立のための全権を米山に一任しました。
米山は、大正9年(1920)8月に説明会を東京銀行集会所で開催し、10月20日に同所で創立総会を開くに至ります。
この時の出席者は14名で、米山が初代会長に選任され、福島は幹事となり、翌日の10月21日に創立総会の終了をロータリーの本部に報告しました。こうして、日本におけるロータリークラブ第1号が誕生したのです。
【来客紹介】 |
2名 |
|
【出席報告】 |
31年4月19日(第804回例会) |
会員総数 |
出席免除会員 |
出席会員 |
欠席会員 |
出席率 |
38名 |
1名 |
23名 |
14名 |
62.16% |
|
|
【幹事報告】
〔メール送信〕
1)例会変更(6月)のお知らせ ⇒ 4/ 12 配信
2)「音楽同好会」 立ち上げのお知らせ ⇒ 4/ 12 配信
3)2018‐19年度活動報告書提出のお願い(提出期限5/7) ⇒ 4/18 配信(各委員長へ)