「おもしろい古事記 PART 3」 髙野 幸雄 会員
・古事記は第40代天武天皇(~686)の命により編纂開始、太安万侶によって和銅5年(712)に第43代元明天皇に献上された天皇一族が日本を統治する正当性を明示し天照大御神を頂点とする神々からの系譜を公的に記録しようとしたのが目的とされ、全体の1/3が神話であり物語性が強い。(国内向け)
・比較にあがる日本書紀も、天武天皇が編纂を命じ舎人親王(とねりしんのう/676~735)らによって養老4年(720)に完成。神話の割合は少なく、歴代天皇の事績の記述に重点、歴史書としての性格が強い。(外国向け)
前回の卓話では、天津神となった天照大御神(アマテラス)達により、天上界である高天原(タカマノハラ)を追放された乱暴者の弟 須佐之男命(スサノオ)は出雲に降り立つ。そして、その六代子孫にあたり、国津神となり、今で云うシャーマンのような能力で当地の英雄となったオオナムジ(大国主命)は、薬神 少名毘古那神(スクナビコナ)達と共に出雲地方を中心とした一大国家を形成して行く。しかし、それを良としない高天原のアマテラス達は大国主命とその子供達に対し 再三「国譲り」を強要する。大国主命たちは何とかこれを逃れようとしたが、力比べ(戦闘)の末に 天の御阿舎(あめのみあらか)という大宮殿を建立し身を隠す事を条件に国譲りに応じたとされるが・・後に出雲大社となる天の御阿舎は、実は大国主命の祟りを畏れたアマテラス達が建立した大国主命一族鎮魂のモニュメントではないか?(出雲大社の特異性)・・というお話をしました。
さて、今回は いよいよ天孫降臨のくだりに入ります。
・天孫降臨
武神タケミカヅチ(建御雷神)を派遣して大国主命たちに国譲りをさせ、地上界を平定したアマテラス達は、次にアマテラスの御子アメノオシホミミ(天忍穂耳命)に神勅を下し天降りさせようとしたが、ちょうどその時にアメノオシホミミに息子ニニギ(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命/あめにきしくににきしあまつひこひこほのにぎぎのみこと)が生まれた為、父に代わってニニギが天降ることになった。これが天孫降臨である。
(一説には古事記の編纂時に皇位にあった持統天皇(女帝)が、早世した我が子草壁皇子に代って孫の軽皇子に即位させようとした事と符合する。即ち「アマテラス-アメノオシホホミミ-ニニギ」という系譜は「第41代持統天皇-草壁皇子-軽皇子(第42代文武天皇)」に重なり、持統天皇が孫の即位を正当化させたものだとしている。仮にそうだとすれば、女帝がその孫を天皇にするために造られた物語が、古事記や日本書紀の中の神話だという事になる。)
・悲しきイワナガヒメ伝説
ニギギは神々を従え、アマテラスから三種の神器を授けられて日向(ひむか)の高千穂の峰に降臨する。そして山の神オオヤマツミ(大山津見神)の娘コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)に出会い求婚する。
オオヤマツミは、コノハナノサクヤビメだけでなく姉のイワナガヒメ(石長比売)も差し出したが、ニギギは醜いイワナガヒメを追い返してしまう。すると、オオヤマツミは「イワナガヒメは天津神の御子の命が岩のように永久に堅固であるように、コノハサクヤビメは桜の花が咲きほこるように栄えてほしいという思いで献上したのに、イワナガヒメを返されたからには、天津神の御子の命は桜の花のように はかないものになるでしょう。」
と言い放った。古事記には「こういう理由で 今に至るまで天皇の御命は長久ではないのである。」と記述されている。記紀にはこれ以上の記載はないが、日向地方にはその後のイワナガヒメの悲痛な伝説がある。ニギギに愛されなかったイワナガヒメは、父オオヤマツミからもらった鏡に自分の姿を映しては、美しく生まれなかったことを呪っていたが、ある日「もう鏡など見たくない」と鏡を投げ飛ばした。鏡は山の頂の大木にかかり、日夜 麓の村を照らしたので、その村を白見村と呼ぶようになった。その後、イワナガヒメは鏡の後を追うように白見村に辿り着いたが、やはり自分の容姿に絶望し、この地で命を絶った。その後 この鏡を御神体として祀っているのが宮崎県西都市の銀鏡(しろみ)神社である。
・国津神 サルタビコは土着の太陽神?
天孫降臨でニニギ一行を先導する国津神サルタビコ(猿田毘古神)と言えば、天狗のような長い鼻を持ち、赤ら顔をしたユーモラスなイメージが定着しているが、古事記には容姿の記載は無い。しかし、日本書紀には 鼻が長く口元が明るく光り目は赤い光を放つ異形を備えた大男という描写がある。記紀に共通した描写は サルタビコは非常に明るい輝きを放っているという点である。又、サルタビコは、伊勢の阿耶可(あざか/三重県松阪市辺り)で漁をしていた時にひらぶ貝(二枚貝?)に手を挟まれて沈み溺れ、その時に三種の海の神霊が出現したとされている。この事からも伊勢・志摩地方に深い関わりをもつ神であり、海女達が奉じていた原始的な男性の太陽神ではなかったのかという説がある。サルタビコという名の解釈については諸説あるが「日神の使いである猿達が守る神田の男」とする説がある。猿と太陽は一見結びつかないが、古来日本では猿は太陽神の使いとみなされ太陽神と結びつきがある日吉(ひえ)神社では聖獣とされた。日の出とともに猿が騒ぎ出すことに由来するとされるが、太陽神アマテラスの孫を先導するサルタビコの姿とも重なる。一方、サルタビコを伊勢に送ったアメノウズメ(天の岩屋戸開きの際に岩戸の前にて裸身で踊った女神)は、ニニギからサルタビコにちなんで「猨女君(さるめのきみ)」という名を与えられ、その後、その氏族は鎮魂祭等に神楽の舞を奉じる女官を務めたと言われている。「帝紀」「本辞」を誦習して、古事記編纂に貢献した稗田阿礼は、この猨女氏の末裔と言われている。
・神武天皇の祖母は謎の海獣??
初代天皇神武の身体に「ワニ」の血が流れている?
イワナガヒメの妹コノハナノサクヤビメはニニギに召され、一夜にして身ごもった。そこでニニギが「本当に私の子か」と疑うとコノハナノサクヤビメは怒り、御殿に籠り「もし、この子が天孫である貴方の子でなければ焼け死ぬでしょう。」と御殿に火をつけた。こうして生まれたのが、ホデリ(火照命)、ホスセリ(火須勢理命)、ホオリ(火遠理命)別名ヒコホホデミ(天津日高子穂穂手見命)の3柱である。コノハナノサクヤビメは容姿も名も美しいが、その気性は相当激しい女神だったようである。そして、海幸彦・山幸彦の物語にあるように海神の宮殿に渡ってトヨタマビメ(豊玉毘売命)と結ばれ、後にニニギの嫡子となるのが三男ホオリである。このホオリの子を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさかけうかやふきあえずのみこと)と言い、神武天皇の父親にあたる。この名前は「天上界の神聖な男児で、日の御子である、渚で勇ましく、鵜の羽で産屋の屋根を葺き終わらぬうちに生まれた命」という意味をもつ。古事記によると・・海宮(わたつみのみや)に住むトヨタマビメは、地上に戻った夫のホオリを追って海辺にやってくる。そして、「わたしは既に身ごもり、今まさに出産するときとなりました。天津神の御子は海原で生んではいけませんので、地上に参上しました。」と申し上げ、海辺に鵜の羽を葺草(かや)にして産屋を作ったが、まだ葺き終わらないうちに産気づいて産屋に入った。そしてホオリにこう告げた。「およそ異郷の人は、産むときになれば、元の国の姿に戻って子を産むものです。どうか、私をご覧にならないで下さい」ところが、ホオリは出産しているところをのぞき見してしまう。すると トヨタマビメは巨大な八尋和邇(やひろわに)と化していた。それを見たホオリは恐ろしくなり遠くへお逃げになった。トヨタマビメは夫がのぞき見したことに気づき、御子を生み残して申し上げた。「私はずっと海の道を通ってこの国に通うつもりでした。けれども、貴方は私の姿をのぞき見なさった。なんと恥ずかしいことでしょう。」トヨタマビメはすぐに海の国と現し国の境を塞ぎ海原に帰ってしまった・・と記されている。古語では和邇(わに)と言えば爬虫類のワニではなく、鮫あるいは大型の鱶を指す。ちなみに日本書紀ではトヨタマビメはワニではなく龍に変身していた。神系の海獣は龍と混同されていたと考えられる。何れにしても異様な光景には違いない。また、中世日本史の百科事典「塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)1953年」には、応神天皇には龍尾があったという伝説が記されている。龍や海獣などの血を引いているということは、本来は その人間の超越性、神聖性の徴として語られてきたとも考えられる。日本書紀によると、ホオリは日向の高屋山上陵(たかやのやまのうえのみささぎ)に、ウカヤフキアエズは、日向の吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ)の葬られたと記されている。これらの場所を現実の地のどこに比定するかはさておき、記紀のニニギ、ホオリ、ウカヤフキアエズに至る3代の記事は、南九州の英雄伝承がもとになっているとする説もある。
・複数の神名は何を表しているのか!?
記紀を読み進むと、神や登場人物に複数の呼び名があることが分かる。たとえば、出雲神話で活躍するオオクニヌシ(大国主命)について古事記ではオオナムジ(大穴牟遅神)、アシハラノシコオ(葦原色許男神)、ヤチホコ(八千矛神)、ウツシクニタマ(宇都志国玉神)の4つの異名があり、「日本書紀」には更にオオモノヌシ(大物主神)、オオクニタマ(大国玉神)の名を挙げている。また、初代天皇 神武についても古事記は、ワカミケヌ(若御毛沼命)、トヨミケヌ(豊御毛沼命)、カムヤマトイワレビコ(神倭伊波礼毘古命)の3つの呼び名を記し、日本書紀ではサヌ(狭野命)、カムヤマトイワレビコホホデミ(神日本磐余彦火火出見命)とも呼ばれている。
ちなみに、記紀の原文には「神武天皇」という表記は一度も出てこない。また「天皇」という語は出てくるが、「てんのう」とは読まずに「すめらみこと」と読む。神武・綏靖(すいぜい)・安寧・・・といった2字の呼び名は漢風諡号(かんふうしごう)というが、奈良時代の文人・淡海三船(723~785)が、中国に倣って神武以下、持統天皇までを一括して定めたのが始まりとされている。つまり、記紀が編纂された頃は未だ漢風諡号は存在せず、その代わりになるのが和風諡号で、例えば神武天皇の和風諡号は 日本書紀によれば「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」である。なぜこのようにおびただしい異名があるのだろうか・・これに対して一説には、神話の中で多くの異名を持つ神や英雄は、本来は別々の存在(別々の神・英雄)だったものを。ひとつに統合した・・という考えがある。
神話学者の一部によると、例えば、記紀にみられる神武天皇の異名は①イワレビコ系、②ミケヌ系(ワカミケヌ・トヨミケヌ)③ヒコホホデミ系、④サノ系の四種に分類されるという。このうち①のイワレビコのイワレは、大和の磐余(桜井市付近)を指し、イワレビコとは「磐余の首長」の意で、大和を統一する英雄としての呼び名である。次に②のミケヌ系と③のサノ系は南紀の熊野地方に由来する。紀伊の熊野三山本宮の祭神はケツミコ(家津御子神)だが、古来この神と同体視される出雲の熊野大社の祭神はクシミケヌと呼ばれた。出雲国造が新任の際に天皇に奏上する「出雲国造神賀詞(いずもくにのみやつこ かんのよごと)」には「加夫呂伎(かふろき)熊野大神、櫛御気野命(くしみけのみこと)」とある。加夫呂伎は神祖を意味し、クシは美称なので神名はミケノ(ミケヌ)となる。よって、ミケヌは熊野にゆかりがある名だとする所以である。またサノ(サヌ)は和歌山県東牟婁郡三輪崎村(現新宮市)の佐野だという。佐野は古くは狭野と書かれ、日本書紀の神武東征譚にも「狭野を越えて熊野の神邑(かみのむら)に到る」と記されている。
③のヒコホホデミは、神武の祖父であるホオリの異名でもある。そこで一説には、ホオリと神武天皇は同一人物として語られてきたものを 記紀ではウカヤフキアエズを一代入れて海宮(わたつみのみや)行きの人物と建国の英雄の二人の人物に分けたのではないかとし、ヒコホホデミとは日向から日の出る東方に向かって船出した南九州の英雄の名であったかも知れないとも説いている。
つまり、神武天皇とは、大和の英雄、熊野の英雄、南九州の英雄、この3つの異なるキャラクターの物語を重ね合わせたものだと考える事も出来る。神武東征と言えば「史実かそれとも架空の伝説か」という二者択一にばかり議論が向かいがちだか、記紀に記されている複数の異名を追っていくと、この伝承が思いの外に複雑な構造を持っている。神武天皇の夫々の異名の由来については、まだ検証の余地があると思われるが、壮大なスケールで描かれる初代天皇の肖像には、有史以前の日本を彩った数多の英雄の雄姿が混然と融和しているとみたほうが、神話をリアルに感じる事ができまいか。
次回は、神代から人代へ。天津神の子孫ホオリの子イワレビコ(神武天皇)が日本の正当な統治者となり、天皇家の始祖となったことを語る神武東征譚、いわゆる神武天皇によるヤマト王朝樹立のお話しをさせて頂きます。