「天満 大好き」 ゲストスピーカー 後藤 孝一 氏 (森本 良嗣 会員 ご紹介)
1.天満の市は・・・天満の子守歌
1.ねんねころいち 天満の市は 大根そろえて 舟に積む
2.舟に積んだら どこまで行きゃる 木津や難波の 橋の下
3.橋の下には かもめがいるよ かもめとりたや 網ほしや
これは天満の子守歌で知られるわらべ歌です。江戸時代の初め承応2年(1653)に現在の天神橋から天満橋の川沿いに天満青物市場が作られ、昭和6年、福島区に大阪中央卸売市場が設立されるまで300年以上に渡り、天下の台所として繁栄しました。
明治の初めには300軒近くの問屋や仲買人の店が軒を連ね、この子守歌のような光景がが見られました。
では、天満の歴史をひもといてみましょう。
2.古代の地形の変化
太古の大阪は南から北へ上町台地が岬のように延びていて、台地の東が「河内湾」(縄文期5,000 年前)と呼ばれる内海で、西は大阪湾が台地のすぐそばまで迫っていました。この入江には淀川と大和川が流れ込み、この川の土砂が長い年月をかけ、河内湾を「河内潟」へ(弥生期2,000 年前)と変貌させ、下流に大小の島々を作り出しました。大阪に福島、姫島、四貫島など「島」の付く地名が多いのはその名残りです。太古の大阪湾に浮かぶ島々は「難波の八十島」と呼ばれ、八十島祭(やそしままつり)という最も古いお祭りが行われていました。 [生国魂神社・・・祭神生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)]
3.難波の津(渡辺の津)の繁栄
5世紀、仁徳天皇(高津宮)の頃、淀川と大和川が運ぶ大量の土砂で氾濫を繰り返すため「難波の堀江」が作られました。難波の堀江はいまの天満橋と天神橋の間の大川にあたると考えられます。やがて堀江の南岸は「難波津」と呼ばれる港が栄え水上交通の要衝となっていきます。この頃の天満は「渡辺」とか「大江」と呼ばれていました。
大化元年(645)6月、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺するというクーデターがおこり(大化の改新)、孝徳天皇が即位し12月に長柄豊碕宮(中央区、難波宮跡)に都を移します。孝徳天皇は陰陽五行説に基づき、鬼門とされる都の西北に大将軍社を祀られます。大将軍社では毎年6月と12月に邪気が侵入するの防ぐための道饗祭(みちあえのまつり)が行われていました。
平安時代、遣唐使船はこの港からはるか唐の都へ向かいました。当時の日本には外洋を渡れるような船舶は建造されていなかったので、半数以上の船が遭難し還る事はありませんでした。唐に渡り文化を伝えるという使命に燃えて海を渡っていきました。
4.難波の衰亡
延暦3年(784)長岡京に遷都になり、続いて平安京に都が移り、難波と朝廷のつながりが無くなりました。
また淀川、大和川の土砂の堆積で港の機能が無くなり、港は堺に移りました。
5.大阪天満宮
昌泰3年(900)9月9日、宮中において「重陽の節句」が行われ、菅原道真公は醍醐天皇より勅命を受け献上したのが「秋思」の詩であり、天皇より御衣を拝領しました。しかし左大臣藤原時平の讒言にあい、その翌年1月25日、大宰府に左遷されました。道真公は道明寺に伯母を見舞い、その翌日難波の津に到着され、潮待ちの間に大将軍社にお参りになりました。それから2年後、903年道真公は左遷先の大宰府で失意のうちに生涯を終えました。すると、まるで道真公の怨念であるかのように様々な天変地異が次から次へと起こりました。菅原道真に対する畏怖の念が広まり、10世紀の中頃に天神信仰が成立します。大将軍社の境内では、天暦3年(949)のある夜、一夜のうちに7本の松が生えてその梢が金色に輝いたといいます。これは道真公の霊の仕業に違いないと信じた村上天皇は大将軍社の地に新しく社を造営して祀るよう勅命を下し、「天満大自在天神」の神号を与えました。これ以来、かっては様々な名前で呼ばれていた難波堀江の北の地は「天満」と呼ばれるようになりました。
6.渡辺橋の戦い・・小楠公義戦之跡
天平17年(745)、大和薬師寺の僧行基がいまの天満橋と天神橋の中程に渡辺橋をかけました。大川は今よりずっと川幅は広く、橋も渡辺橋だけだったので、泉州、紀州から京都へ通じる重要な通過地点として、また古くからの四天王寺、住吉、高野、熊野詣での拠点でもありました。南北朝時代、正平2年(1347)楠木正行は足利尊氏の武将細川、山名氏の軍勢と住吉付近で交戦しました。小楠公の軍勢が勝利し足利勢は敗走してこの渡辺橋に追い込まれました。足利勢500人は先を争い大川を渡るため橋から落ち、寒中の川でおぼれているのを小楠公は助け、京へ帰したといいます。適塾出身の佐野常民は博愛社を設立し、明治20年日本赤十字社とし国際赤十字に加盟する際、この義戦の一件を演説し、加盟の運びとなった。
7.石山本願寺
室町時代の後半、本願寺の教団は、摂津、河内、和泉地域への組織拡大を図っていました。浄土真宗8代法主蓮如上人(1415~1499)は文明13年(1481)京都山科に本願寺を建て、晩年の明応5年(1496)現在の大阪城の地に石山御坊を設け、布教の拠点としました。この地は当時小さい坂と書いて「おさか」と呼ばれており、これが大阪の名前の由来となりました。小坂(おさか)→大坂(おさか)→大阪(おおさか)
8.大阪城築城
石山御坊ができると、日ごとに人の往来がはげしくなり、日用品、食料品の売買も盛んなり、問屋、仲買人のような組織が生まれ、のちの天満青物市場となっていきます。石山本願寺は一つの城であった。自然要害の地を利用して、西は大阪湾に面し、水路によって船が入れるようになっていた。多くの宿坊がたち、一大寺内町を形成していました。
織田信長はこの地を天下統一の拠点と考え、本願寺を攻めました。両者の戦いは元亀元年(1570)から始まり、天正8年(1580)、11代法主顕如は本願寺を明け渡し紀州に逃れます。しかし信長は2年後本能寺の変で最期をとげ、天下は豊臣の時代となりました。
秀吉は大阪城築城にかかり天正14年(1586)に完成し、天下を統一しました。城内は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、九層の天守閣がそびえる勇壮華麗な城でありました。
9.豊臣から徳川へ・・松平忠明の市街地整備
大坂冬の陣、夏の陣を経て、元和元年(1615)豊臣時代は終わりを告げます。戦火で大阪は大きな被害を受けましたが、大阪は不死身でした。豊臣が滅び、一ヶ月たらずの元和元年5月、家康の娘、亀姫の子、松平忠明が大坂城主に就任します。忠明は33歳、任期は4年でしたが、城下町の整備に腕を振るいました。市中に45間(約80㍍)四方の市街地をつくり、道路網を整備、さらに水運の便を図るため、道頓堀川、京町堀川、江戸堀川を完成させました。次に寺院、墓地の移転廃合。町は侍町(与力町、同心町)と町人町に分け、さらに町人町を商人と職人の町(大工町、金屋町、旅籠町、樽屋町)に区分しました。忠明は元和2年、川崎(天満1丁目)に東照宮を創建します。町民に徳川の威勢を浸透させる目的でした。
その後、東照宮は、天保8年(1837)大塩の乱で焼失、明治6年廃社となり、跡地は滝川小学校の敷地となっています。
10.天下の台所・・天満青物市場
天満青物市場は堂島の米市、雑喉場の魚市と並んで三大市場。江戸時代に入り、大阪は江戸百万人の台所をまかなうようになりました。「天下の貨七分は浪華にあり、浪華の貨七分は舟中にあり」といわれたように、江戸時代の大阪の繁栄は、水運によってもたらされた。
菱垣回船・・・寛永年間(1624~44)に大阪の商人が江戸積み船問屋をつくり、運送、販売をはじめた。回船というのは海上輸送船のこと。元禄の頃には、200石から400石積みの船が262隻就航していた。
樽回船・・・・伊丹の酒やもめん、紙、畳表などを積み江戸に送る。菱垣回船よりも早い快速船であったので次第に勢力を拡大した。
三十石船・・・大阪、京都を結ぶ淀川は重要路であったが川瀬が多く、小船を利用した。伏見から大阪・八軒家45kmを結ぶ貨客船。長さ27m・幅3.6m、28人乗り、船頭は4人という決まりがあった。上りは綱を引いて1日がかり、下りは櫓で半日で着く。船賃は下りは半額。宝暦2年(1752)には川船の総数は5,244隻あったという。
天満青物市場の起源は、石山本願寺の創建にさかのぼります。門前に集まる人たちを相手に開かれた青物市が寺の発展と共に大きくなり、本願寺の石山退去の後は離散もしたが、承応2年(1653)、商人たちが町奉行所に願い出て、天満に移転し、以後、淀川の水運に恵まれ急速に発展を遂げました。市場の区域は、天神橋北詰から東へ、竜田町西門までの大川沿いと定められ、青物、乾物、一部生魚商がありました。畿内各地から集まったみずみずしい野菜や果物が、かけ声勇ましく市で売りさばかれていました。天神橋から下手は市場ではなく市の側といい、主に乾物問屋の町として栄えました。乾物は保存食として価値が高くなり、販路も拡大して江戸送りも多く、売り上げは急上昇しました。
11.番頭はんと丁稚どん
丁稚・・・10歳から12歳で採用。掃除や家の雑役・近所の使い走り。14,5歳で荷だし、荷づくり、運搬の仕事をする。無給
手代・・・18,9歳で元服し、一人前の待遇となる。若干の給料。番頭の指図で売買取引も出来るようになる。
番頭・・・修練を経て番頭に昇格。主人に代わり支配人として営業を任される。27,8歳で結婚、暖簾分け、終身主家に仕える者も
いた。
おやだんさん(主人の父) おえはん(主人の母) だんさん・だなはん(主人)
隠居後はごいんきょはんごりょうさん(主人の妻) ぼんさん・ぼんぼん(主人の息子)
複数いる場合は上から順に、あにぼんさん、なかぼんさん、こぼんさん
成人後は、わかだんさん。その妻は、わかごりょうさん
いとさん・いとはん・とおはん(主人の娘)複数いるは、上から順に、あねいとさん、
なかいとさん、こいとさん、こいさん、こいこいさん
12.いま天満は・・・
7月25日に行われる日本三大祭として有名な「天神祭」は陸渡御、船渡御を合わせて140万人の人出で賑わいます。船渡御では大川を100隻の船が行き交い、打ち上げ花火が川面に映り、壮大な絵巻が繰り広げられます。
また、平成18年に開設された「天満天神繁昌亭」も落語の定席として連日にぎわいを見せています。