「心育て Part 12」 河田 英子 会員
『稻むらの火』 昭和12年7月31日発行 文部省 小學國語讀本 尋常科用 より
「これは、たゞ事でない。」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て來た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかつた。
しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで經驗したことのない無氣味なものであつた。
五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。村では、豐年を祝ふよひ祭りの支度に心を取られて、さつきの地震には一向氣がつかないもののやうである。
村から海へ移した五兵衛の目には、忽ちそこに吸附けられてしまつた。風とは反對に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、廣い砂原や黑い岩底が現れて來た。
「大變だ。津波がやつて來るに違ひない。」と、五兵衛は思つた。此のまゝにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶豫は出來ない。
「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持つて飛出して來た。そこには、取入れるばかりになつてゐるたくさんの稻束が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」
と、五兵衛は、いきなり其の稻むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつと上つた。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべての稻むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまゝ、沖の方を眺めてゐた。
日はすでに沒して、あたりがだんだん薄暗くなつて來た。稻むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。莊屋さんの家だ。」
と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。續いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。
高臺から見下してゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やつと二十人程の若者が、かけ上つて來た。彼等は、すぐに火を消しにかゝらうとする。五兵衛は大聲に言つた。
「うつちやつておけ。―大變だ。村中の人に來てもらふんだ。」
村中の人は、追々集つて來た。五兵衛は、後から後から上つて來る老幼男女を一人々々數へた。集つて來た人々は、もえてゐる稻むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。
其の時、五兵衛は力一ぱいの聲で叫んだ。
「見ろ。やつて來たぞ。」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠くの海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなつた。廣くなつた。非常な速さで押寄せて來た。
「津波だ。」
と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかゝつて來たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとゞろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して來た水煙の外は、一時何物も見えなかつた。
人々は、自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
高臺では、しばらく何の話し聲もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、たゞあきれて見下してゐた。
稻むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明るくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと氣がつくと、無言のまゝ五兵衛の前にひざまづいてしまつた。