「おもしろい古事記 Part 2」 髙野 幸雄 会員
・古事記は第40代天武天皇(~686)の命により編纂開始、太安万侶によって和銅5年(712)に第43代元明天皇(661~721)に献上された天皇一族が日本を統治する正当性を明示し天照大御神を頂点とする神々からの系譜を公的に記録しようとしたのが目的か・・不都合な事は記載されないだろう。 全体の1/3が神話であり物語性が強い。(国内向け)
・比較に上がる日本書紀も、天武天皇が編纂を命じ皇子である舎人親王(676~735)らによって養老4年(720)に完成。
神話の割合は少なく、歴代天皇の事績の記述に重点、歴史書としての性格が強い。(外国向け)
・謎の神、ツクヨミ
ツクヨミは既に天津神となったアマテラスの命により、五穀の神である保食神(ウケモチノカミ)と面会したが、その際のもてなしの為にウケモチが自らの口から、陸に向かって米の飯を、海に向かって大小の魚を、山に向かって獣を出す様を見て、「口から吐き出したものを、私に食べさせるのか」と激高し、剣を抜いて撃ち殺した。
これを知ったアマテラスは激怒し、ツクヨミに対して「お前は悪神だ、顔も見たくない」と言い放ち、これにより昼と夜が生じたとされている。
・天上界を追放されたスサノオノミコト
アマテラスの弟である須佐之男命は、高天原(タカマノハラ)で天津罪(アマツツミ)を犯し、アマテラスに祓われ出雲に降り立った。
これが、「出雲神話」の始まり⇒「ヤマタノオロチ退治」「大国主神と稲羽のシロウサギ」「出雲の国作り」「国譲り」へと古事記の中でも詳しく語られる事となる。
要するに、天津罪とは国津罪と並んで 犯してはならない大罪であり当時の「法」にあたるものである。
古事記の中ではそれらの穢らわしい罪の全てのルーツはスサノオにあるとし、アマテラスがそれを祓うことで高天原を浄化したと解説している。
*スサノオが犯した天津罪:
畦放(あなはち/畦を壊して田を干上がらせる事)溝埋(水路を閉ざす事)・・・・糞戸(糞をまき散らす事)云々。
*国津罪とは:生膚断(いきはだたち/生きている人の肌に傷をつける事)死膚断(死人の肌に傷をつける事)近親相姦、獣姦、云々。
・大国主神(オオクニヌシノカミ)とは
須佐之男命の六代子孫にあたる「大国主神=オオナムジ」は薬事を操るシャーマン集団の父祖??
「少名毘古那(医療神)と力を合わせて和方と呼ばれる独自の薬事法を操った」と記されている。
「ワニ(サメ)に騙され毛皮を剥がれた稲羽のシロウサギに処方箋を与えて治癒させた」という記述もある。
・オオクニヌシの試練
オオナムジは受難の神であったがモテた。兄弟の八十神達がふられたヤガミヒメと結婚しようとした為に迫害される。
逃げ込んだ根の国(死者の国)でスサノオの娘スセリビメと結婚するが、スサノオにより多くの試練を与えられる。
結局は機略で難を逃れスサノオの神器を盗んで逃げおおせる。後にスサノオに認められて娘を正室とし、出雲に宮殿を建て大国主神を名乗ることを許される。
・オオクニヌシの国作り
試練を乗り越え神器を得て 英雄となった大国主神は諸国をめぐり、女神達と国作り(子孫作り)に励んだ。
その際にはユニークな異形の神々が登場する。その一柱が「崩え彦(クエビコ)」、案山子を神格化した一本足の神。
又、「少名毘古那神(スクナビコナ)は薬草に乗ってやって来たという妖精のようなミクロ神である。大国主神と共に国作りを行ったが、突如として常世に旅立ってしまう。現在でも医療の神、温泉の神等、多様な神格で信仰されている。
*大阪の薬問屋の集積地である道修町では少彦名神社があり「神農さん」として信仰も厚い。
「国譲り」の真相
オオクニヌシはスクナビコナと共に出雲で国土を整えたが、アマテラスは突然「日本の国土は全て我が子が治めるべきだ」と言い出し、御子の天忍穂耳命(アメノオシホミミ)を天降りさせる。そして、アメノオシホミミより「葦原中国(中国地方)がざわついている。」という報告を受け、弟の天菩比命(アメノホヒ)を出雲に特使として遣わせる。しかし、アメノホヒはオオクニヌシにへつらい、3年経っても帰ってこない。
次に天若日子(アメノワカヒコ)が使者として送り込まれるが、アメノワカヒコはオオクニヌシの娘と結婚してしまい、8年経っても帰ってこない。業を煮やしたアマテラスは、鳴女(ナキメ)という雉を遣わすが、アメノワカヒコはナキメを射殺してしまう。この矢は 高天原に届くが、終いには この矢によってアメノワカヒコが射殺されてしまう。
次の使者として伊都之尾羽張神(イツノオバハリ)の子 建御雷神(タケノミカヅチ)が派遣される。出雲国の伊耶佐(いざさ)の浜に降りたタケミカヅチは、オオクニヌシに国譲りを迫る。オオクニヌシはその判断を子の事代主神(コトシロ ヌシ)に委ねるが、コトシロヌシは逃げ隠れてしまう。もう一人の子 建御名方神(タケミナカタ)がタケミカヅチに力比べを挑むが、あっけなく敗れ「この葦原中国は、天津神の御子に差し上げます」と観念した。
いよいよオオクニヌシも国譲りを承諾するが、一つの条件をつける。それは天津神の御子と同様に立派な宮殿を造営してくれというもので、「建ててくれれば遠い隅の地に隠れ控えましょう」というものだった。この宮殿こそが出雲大社だとされている。これは、オオクニヌシにすれば「国譲り」ではなく正に「国盗られ」の物語であり、「国譲り」とするのは、のちに記紀をはじめ種々の史記を編纂したた朝廷側からの観点であることは否めない。
出雲大社
オオクニヌシを祀る出雲大社は、出雲神話のメッカと思われがちだが、古名である杵築大社(きづきのおおやしろ)もふくめて古事記には一切登場しない。(出雲大社と正式な称号としたのは明治以降)
オオクニヌシが大社の造営地を「遠い隅の地」と表現しているが「日本書紀」では「天日隅宮(あまひすみのみや)」と呼ばれている。「日隅」とは」「太陽の沈む方角の彼方=西の果て」というニュアンスか。
最近では、大和から見て真東の日の昇る地として伊勢神宮が奉斎され、その対照で西の日の沈む地として出雲大社が奉斎されたという見解もある。現在、出雲大社は出雲平野の西北、島根半島の山麓地帯に鎮座している。確かに出雲国の中では西北の隅に位置しているが、さほど辺鄙ではない。しかし、風土記の時代(8世紀)には半島自体が大きな島であり出雲大社があった杵築の地は海や沼によって陸地から隔てられ北側には山が迫る窮屈な僻地だった。
こうした古代の地形や「隅」とリンクした社名を考えると、「出雲大社」は国譲りをしたオオクニヌシへの褒美として建てられた宮殿ではなく、出雲から追いやられたオオクニヌシの祟りを封じ込めたる為に、あえて僻地に建てられた鎮魂の社であったのではないかという見方もある。
出雲国造家の謎
出雲大社の祭祀は代々「出雲国造(いずもこくぞう)」が司ることになっている。出雲国造は代々その子孫が世襲しており、中世に
千家家と北島家に分裂したが相承が続き、現在の出雲国造は第84代の千家尊佑(たかまさ)氏である。
出雲国造家家はオオクニヌシの末裔と思われがちだが誤解であり、古くは出雲臣を称した豪族とされており、古事記では「アマテラスの子アメノホヒの子 建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)が出雲国造の先祖である」と明記されている。つまり、出雲大社の祭神オオクニヌシを代表格とする国津神でなく、対峙する天津神アマテラスの子孫の血筋である。また、アメノホヒの兄であるアメノオシホミミは、後に 天孫降臨して天皇家の祖となるニニギの父である。アマテラスからみれば、長男の一家を天皇家にし、次男の一族を出雲に遣わせた形となる。
本来、出雲国造の本拠地は出雲大社のある出雲国出雲郡ではなく、その東側の意宇(おう)郡であり、同郡に鎮座する熊野大社の祭祀を職掌としていたが、8世紀末頃より出雲西部に本拠を移し、出雲大社の祭祀を専職とするようになったと考えられる。
つまりアマテラスの血筋であり東部出身の出雲国造にとって、出雲大社とは、自分たちが滅ぼした先住者の祖神であるオオクニヌシを祀る社ということになる。
巨大建造物だった古代の出雲大社とは
現在の出雲大社の本殿は江戸時代に再建されたもの、大社の創建時期は定かではないが、神話に即して弥生時代とするもの、
あるいは古墳時代とするもの等諸説あるが、記紀が編纂された8世紀初頭までには、その威容が大和の人々が知るほどとなっていた。現在の社殿は高さ約24メートルであるが、創建当時はとてつもない高層建築だった。
平安半ばの書物によると「雲太、和ニ、京三」とあるが、雲太とは出雲大社、和ニとは大和東大寺の大仏殿、京三とは平安京の大極殿のことであり、出雲大社の社殿が東大寺の大仏殿(約45メートル)よりも高かったことを指す。社伝によると最古の社殿は高さ32丈(約96メートル)で、その後16丈(約48メートル)になったという。
なぜ、出雲国造は社をこれほどまで高くそびえ立たせる必要があったのか・・一説ではあるが、オオクニヌシは隠れ控えた=死の国に隠れた。つまり、天津神を奉る大和王権側の勢力によってオオクニヌシは殺害されたのではないか。出雲大社はオオクニヌシを鎮魂し、その祟りを封じる社であり、オオクニヌシが葬られた墓だと考える説もある。
一般の神社とは異なり 御神座が正面でなく横=西を向いているのは出雲大社の不思議の一つであるが、大社がオオクニヌシの墓ならば納得できる。「正面(現世)を向かず、どうか西(死の国)に向かってください」というメッセージなのだろうか?
*次回は天孫降臨以降のお話しをしたいと思います。
参考書籍:「本当は怖い古事記」古銀剛著 「眠れないほど面白い古事記」由良弥生著