■会長の時間
【己れの欲せざるところは人に施すなかれ】
中国の放事。
現在では、自分が他人からしてほしくないような行為は人にもするな。他人の人格は尊重しなくてはならない、といった意味に使われている。が、もとの意味は少しちがう。
孔子の高弟で子貢という人がいた。ある人が「子貢は仲尼(孔子の字)よりも賢人だ」と評するほど、世俗的な知恵や才覚にはすぐれていた。しかし、孔子からみると、自分のすぐれているのをいつも得意そうにしているのが、はなはだ不満であった。自意識が過剰で鼻もちがならないと感じていたふしがある。あるとき子貢が、
「わたしは、自分が他人からされたくないことを、自分も他人にはしないように心がけているのです」といった。自分が自分がという自意識をありあまるほどもっていながら、それをあらわにして、他人にも認めさせようとしないのは、どうも不自然で、事実そんな態度をとることはできないのではあるまいかと思った孔子は、よい機会だと、
「そのような態度はお前にはできまい」ときめつけた。が、内心、自我を捨てて天の権威に従うという孔子自身の教えに、子貢のことばは矛盾するものではないと思っていた。そこで、子貢が謙虚に、
「なにかひとこと、終身努力しなければならないということばをいただけないでしょうか」といったとき、孔子は「それ恕か。己れの欲せざるところは人に施すなかれ」と、子貢自身の考え方をそのままかえしてやった。
心して、終身努力しなければならないのは、思いやりである。お前の望まぬことは他人にしてはならないと教えたのである。『恕』は、己れの欲するごとく他人に仁をほどこす心である。他人に仁をほどこすために自己はさっぱりと棄て去らなければ不可能である。
だから、自分から離れよ、と子貢にいったのである。『仁』とは、誠意と思いやり、愛情をもって人につくすことをいう。
『己れの欲せざるところ……』は、自己の人格の独立と尊厳をあくまで主張しながら、他の人々の人格を認識する、といった個人主義思想から発せられたのではない。自己を放棄するところから、周囲の人々の人格の独立と尊厳を守れといっている。もとの意味、孔子の本意は、自己放棄の要請といえる。
人並すぐれた人ほど、対人関係のなかで相対的に自分自身の優秀さがよくわかってくる。相手がバカに見えてしかたないだろう。
つい自己過信におちいり、うぬぼれが頭をもたげる。しかし、自己を過信し、自分の力を人に認めよと強制するような態度で終始していたら、いざ周囲の人々の献身、援助が必要という場面で、かならず冷たい反応に会う。
【来客紹介】 |
2名 |
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【出席報告】 |
24年9月28日(第517回例会) |
会員総数 |
出席免除会員 |
出席会員 |
欠席会員 |
出席率 |
30名 |
2名 |
19名 |
9名 |
67.86% |
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