「捨聖 一遍上人について」 小林 知義 会員
一遍上人(幼少名は松寿丸という)が生まれたのは、1239年、今の愛媛県、伊予の松山、道後温泉の近くで生まれています。先祖は河野水軍の末裔で、三島大明神の氏子代表、豪族の家系なのですが、源義経に近く、最終的には、頼朝の鎌倉幕府に睨まれて、攻められ、父(通広)も子も出家させられる運命となりました。出家してしばらく修行に励んでいたのだが、一族の有力者や、父が死んだ後、後継者も見当たらず、一族から呼び戻されて河野家の家督を継ぐのですが、近隣の豪族との争いや一族内部の争いに嫌気がさして、最終的には、今度は自分の意思で、二度目の出家をしたようです。故郷の近く、菅生の岩屋の仙人堂で苦行に明け暮れた後、35歳になって、何があったのは定かではないのですが、突然、思い立ち、布教の旅を始めます。自分の悟りが、真実かどうかを確かめるために、地位や名誉、持っているものすべてを捨てて旅立つわけです。
西行法師や芭蕉に負けないぐらい全国を、念仏行脚(南無阿弥陀仏を唱えながら、念仏札を渡す旅)するのですが、その中で有名なエピソードを二つばかり紹介します。
1.熊野権化のお告げ
当時、聖域だった熊野に詣でている途中で、ある修験者達の一団と出会った。いつものように布教活動で、南無阿弥陀仏と書かれた木札を渡そうとすると、修験者達が受け取れないと拒んだ。そこで、一遍は「一念の信をおこして、この札を受け給うべし」と問うた。修験者は「いま、一念の信心の心、侍(はべ)らず、受けば妄語なるべし」と答え、受け取る事を拒みました。一遍上人は「仏教を信じる心おはしまさずや、などかうけ給わざりけり」と駄目をおした。修験者は「経教を疑わずといえども、信心のおこらざる事は、力及ばざる事なり」と答えた。一遍上人はそれを聞いて、悩みに悩んだ。その夜、うとうとしていると、熊野権化が姿を現して、「融通念仏すすむる聖、いかに念仏をば、悪しく推めらるるぞ、御房の薦めによりて、一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚(じゅうごうしょうがく)に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところなり。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札をくばるべし。」と告げた。一遍上人はこのお告げを聞き、自分の信心に確信が持てたようだ。
2.紀州の法燈国師との禅問答
一遍上人が法燈国師のところで参禅して、念仏の極意を問われ、「念仏の究極の姿を私は悟りました。」と言って、歌を詠みました。
「となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」これが究極の念仏だと心境を披露したところ、法燈国師から「喝」と言われ、「未轍在」だと退けられた。もう、一度、一遍上人は思索を積み、再び相見したときに、こう詠み替えました。「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだ仏」 法燈国師が「喝」と言った理由は、声ばかりしてと詠ったら、その声を聞いている自我、意識している自意識がまだ残っている。その意識さえ、捨てないと本当の悟りは開けないという指摘に、即座に反応して、一遍は「南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と次の歌を詠んだという事である。ただ、「南無阿弥陀仏」の6文字の念仏を唱え続ければ、浄土にいけるという強い信念の元で、遊行は15年間続けられ、一遍は死ぬ間際まで、一度も郷里に帰ることはなかったと伝えられています。ただ、旅の終盤は、信者も増えて、見るからに楽しそうな遊行だったようで、太鼓に合わせて、念仏を歌いながら踊り狂うというスタイルだったようです。
また、日本文化の発祥は室町時代に遡ると言われているのですが、能や狂言、茶道や華道、歌舞伎も含め、多くの文化芸能の発祥の源に、一遍上人の踊り念仏と、捨てるという美学が影響した事は紛れもない事実だと思われます。
そして、一遍の最終の遊行は兵庫県で行なわれました。遺骨は、本人が海に流すか、野に捨てて、獣に食わしてくれ、と遺言したにも関わらず、在家信者達によって、兵庫県の真光寺に墓が建立され、今も祀られています。
最後に、捨聖、遊行上人の真骨頂の歌を紹介して、私の卓話の時間を終わりにしたいと思います。
「身を捨つる 捨つる心を捨てつれば、思ひなき世に 墨染めの袖」