「自己紹介」 豊島 秀郎 会員
私は、昭和28年に島根県松江市で生まれました。5人兄弟(姉、姉、兄、兄、私)の末っ子です。昭和30年頃、父の転勤の関係で、広島市に移り、高校卒業まで広島で育ちました。
学校は、広島大学附属小、中、高等学校を経て、早稲田大学法学部を卒業しております。
広大附属では、小、中、高を通じてサッカーをしていました。広大附属は、私が在学していた当時は、サッカーでは名の知られた学校でした。当時、Jリーグの前身である日本リーグは10チームで構成されていましたが、そのうち、6チームの監督は広大附属のOBでした。東京、メキシコ両オリンピックの日本代表の監督で、日韓ワールドカップ招致当時のサッカー協会会長の長沼さん、セレッソ大阪を作り初代社長、その後のJリーグチェアマンとなった鬼武さんもOBです。私が一緒にサッカーをしていたメンバーからも2名、その後日本代表となっています。
そのような環境下でサッカーをしていて、一時はサッカーで身を立てようかとも考えました。しかし、はっきり言って、当時は、サッカーで身を立ててもしれてるし、自分にサッカーで身をたてるだけの資質もないと判断し、高校途中でサッカーは辞めています。
もっとも、その後、弁護士になった後、サッカーを楽しみました。その影響で、息子も、洛南高校でサッカーをしていました。洛南高校もそこそこサッカーの強い高校で、現在、ガンバの正キーパーで、日本代表でもある東口は洛南高校出身です。
さて、仕事についてですが、昭和63年に弁護士登録し、弁護士経験は30年は越えました。その間、色々な事件を経験しました。
平成4年に父が勤務していた会社Rから委任を受けた事件は、バブル当時、Rの大阪支店長が、手形発行を認められていなかったにもかかわらず、関連会社をつくりその会社で5億程度の手形を発行し、Rの裏判を押して、お金を作り、沖縄に投資したという事件でした。
大阪支店長は、当時の大阪の同和の切り込み隊長的な存在で、周囲にはややこしい人間がたくさんいました。事務所に街宣車を横付けされたこともありました。ようやく逮捕にこぎ着けた時には、担当検事から、「先生方、よくぞ今までご無事で」とも言われました。4大新聞の大阪版はすべて一面で大々的に報道していました。この事件と、整理回収機構から委任を受けた北朝鮮系の朝銀の経営者の責任を求める訴訟をしていた時は、身辺には気をつけました。
このような切ったはったの事件も好きなのですが、理論的事件も好きです。
このような事件で私が経験した最たるものが、ここでも前にお話した、営業秘密侵害を認めたアメリカ判決の日本での執行要件についての最高裁平成26年4月26日判決です。それまで無条件にアメリカ判決の執行を認めるべきだと立場が主流だったのです。
しかし、私は、執行を求める者が、不法行為(営業秘密侵害→損害発生)の客観的事実関係を証明しなければならないとの考えを示し、最高裁が私の考えを採用したものです。
私の家族は、妻恵子、一人息子健司がおります。妻は、東京の日本女子大附属の小、中、高等学校を経て、早稲田大学法学部を卒業し、現在は専業主婦です。健司は、24歳、今春、法科大学院を卒業しています。
自宅は、阪急夙川から出ている甲陽線の苦楽園口駅から東に5分ほど歩いたところにあります。 以上