「成年後見と私」 中井 周治 会員
成年後見制度
平成12年4月1日から新しい成年後見制度が施行されました。司法書士会が平成11年12月22日に社団法人成年後見センター・リーガルサポートを設立し、私もこのリーガルサポートの会員になりました。会員は、研修を受けて、家庭裁判所の後見人名簿や後見監督人名簿に登載されます。
成年後見制度は、法定後見と任意後見に分けられます。
法定後見とは、精神上の障害(知的障害・精神障害・認知症など)により判断能力が不十分な方が不利益を被らないように家庭裁判所に申立て後見人等を選任してもらう制度です。判断能力により「後見」「保佐」「補助」の三つに分類されます。
後見:判断能力が欠けている場合で、後見人がすべての契約を代理します。また、選挙権や印鑑登録が出来なくなります。
保佐:判断能力が著しく不十分な場合で、保佐人が、民法13条1項(元本の領収や利用、借財や保証、不動産等の重要な財産
に関する権利の得喪、訴訟、贈与、和解や仲裁合意、相続の承認や放棄、遺産分割協議、贈与の拒絶、遺贈の放棄、
負担付贈与や負担付遺贈の承認、新築・改築・増築・大修繕、短期賃貸借の期間を超える賃貸借{山林10年、土地5年、
建物3年、動産6か月})の行為の取消権を持ち、裁判所が認めた行為の代理権を持ちます。
補助:判断能力が不十分な場合で、補助人が民法13条1項の一部の行為の取消権を持ちます。
又、任意後見は、高齢者等の方が、現在の判断能力に問題なくても、将来、判断能力がおとろえた場合に備えての契約で、その方を援助する代理人である「後見人」等を付ける制度です。この契約は、公正証書で作成され、自分の信頼できる人を選任できます。
任意後見契約は、同時に遺言作成や事後事務契約や任意財産管理契約を締結することが多いです。
私が、今までに後見人に選任されてのは、10名ですが、いまは、4名亡くなり、6名になっています。
最初に後見人に選任されたのは、平成15年11月28日で、大正11年生まれのおばあちゃんのAさんでした。
平成14年の後見人名簿に登載されてから1年後に大阪家庭裁判所から呼び出しがあり、申立書を見て受任するかどうか決めてくださいと言われました。私が、申立内容を見ると、収入は、年金が19万円ほどあり、支出が17万円ぐらいで、やりくりできそうですが、財産が現金100万円弱しかなく、何かあったらすぐなくなるし、報酬ももらえるかどうかわからないなと想い、躊躇していると、書記官が、中井先生が断るともう受けてくれる人はいないんですよ。と私にプレッシャーをかけてきました。本人が入院している病院が、三田市にあり、報酬が出るかどうかわからない案件で、毎月、時間をかけて三田まで行く人がいないんですよ。でも、中井先生は住所が三田市なので、近いですよね。といわれました。しかも、後見人名簿登載者で三田市に住んでるのは私だけのようでした。
その病院は、三田市と言っても、私の家から車で25分かかる山の中で、三田駅からは、2時間に1本のバスに乗らないといけない場所でした。
自分でも、私しか受任できないのが良くわかったのと、成年後見人になったことがなかったので、勉強だと思って、受任しました。
Aさんの後見人の選任から2週間で確定し、Aさんの財産を管理していた社会福祉協議会に行き財産の入った預金通帳や家の鍵、年金手帳等の書類を引き継ぎました。そして、財産目録を作成して、家庭裁判所に提出しました。大阪の社協の担当者は、三田の病院まで行くのが大変だったようで、ホッとしていました。
私は、Aさんに会いに行くのは、いつも家の車で行きました。初めて会ったときは、担当医師に健康状態や精神状態を聞き、Aさんは、話しかけても一切何もしゃべりませんでした。
Aさんは、昭和50年に旦那さんが亡くなり、一人暮らしを10年したころから妄想癖が出て、平成5年から病院に入ったままでした。大阪の病院を転々として、1年ぐらい前に三田の病院に移転したそうです。しかし、後見の申立がされたのは、財産の管理をしていた社会協議会が三田の病院まで行くのがいやになったのと、病院で入院を継続するに当たり、契約の締結や更新の出来る後見人を付けて欲しいといわれたのと両方でしょう。
Aさんの自宅は、エレベーターのない市営住宅の4階で、帰ることは不可能でした。経費節減のために住宅の解約を裁判所に許可申請していると、市役所の方から、解体するので、立ち退いて欲しいといわれ、立ち退き料をもらう交渉がまとまりました。
そして、家財道具の処理を、すべて業者に依頼すると高いので、うちの社員とアルバイトに家財道具を1階まで下ろさせて、後は、業者に処分させました。
中には、仏壇や、10年以上明けていない冷蔵庫、カビの生えた洗濯機や、臭くなった押入れの布団等の家財道具が出てきました。また、押入れの奥から新聞紙に包まれたものが出てきて、それを開けると、聖徳太子が80人も出てきて、本当に驚きました。これで、Aさんの財産は倍以上に膨れ上がりました。もし、業者に任していたら、そのまま捨てていたか、ネコババされていたかも知れません。
後見人の報酬は、1年か2年に一度だけ裁判所に申し立てて報酬を決定してもらい、被後見人の口座からもらいます。
Aさんが、一回だけ声を発したことがありました。Aさんと会って5ヶ月後ぐらいのときに、私が香水を付けていたのですが、それで面会に行ったときに、初めて言った言葉が、「臭っ!」でした。そのときは、うちの妻も社会見学のために同伴していたのですが、すごく受けてむちゃくちゃ笑いながら、「あんたも可哀想な人やな、一生懸命やって、最初の言葉が「くさ!」やて、ハハハハ・・・・」といってました。
Aさんは、私が後見人に就任してから、2年3ヶ月で亡くなりました。
夜中の1時ごろ病院から電話があり、「Aさんが亡くなったので、安置室が1体分しかないので、朝6時までに遺体を回収に来て欲しい。」と言われました。私は、病院って冷たいとこだと思いながら、葬儀屋に電話してすぐに迎えに行ってもらいました。親族は3人いましたが、仕事があるし、Aさんに会ったことがないし、財産は一切入らないと言って来られませんでした。結局、2日目に私とお坊さんだけで葬儀を行い、その日のうちに斎所で焼いて、お骨を拾い、四天王寺に納骨しました。大阪へ向かう電車の中で骨壷がすごく熱かったのが自分の手の記憶として残っています。
最終的に、相続人3人のうち一人が100万円、2人が50万円の相続財産が残りましたが、どうします?と聞くと、3人とも取りに来られました。でも、帰りにAさんの菩提寺へお参りに行って、お礼もしてきますといいながら帰られました。